俺は安全運転宣言車! 前編

ー成田教習所にて

 

学科担当:八木沢先生

この前女の子にさぁ、こんな事言われたんだけれどぉ

「淫らってどうゆう意味ですか?」って

 

淫らって言われても・・・

困っちゃうよね

それで僕こう答えたんだ

「淫らっていうのは、なんかこう女が積極的に~」

 

僕が説明に手こずっていると女の子が

淫らに車線変更しちゃいけないんですよね?」

 

ってそれ・・・みだり!

みだりに車線変更しちゃいけないの!」

 

~シーンと静まり返る教室~

 

そこにはただ、八木沢先生の会心の一撃だけが虚しく木霊していた・・・

 

<俺は安全運転宣言車!>

 

2013年、春

 

まだ満開ではない桜並木を、自転車で勢いよく駆け上がる

引き籠っていた俺はずっと、自転車で風を切って走るのが好きだった

嫌な事全部置いていけるから

けれど29歳になって少しづつ変わっていった

それはもう一つの人生の始まり

 

空港で働くようになって通る道・・・

職場のバスドライバーとの縁・・・

この先には成田教習所がある

 

いつも通る道、関わる人との縁は

川の流れが支流を作る様に、俺を新たな場所へと運んでいく

人は互いに影響し合い生きていると知ったあの日の物語・・・

 

君は車を運転できるかい?

安全運転に自信はあるかい?

俺ははっきり言って上手くはないかもしれない

技術、経験、知識も必要だ 

けれど大事な事は上手さじゃない

 

古びた教則本に、こんな言葉が書いてある

「人の命の尊さを知り豊かな人間愛を持てば、自ずとセーブされた運転になる」と

 

答えはそこにある・・・

 

<生まれ変わった日々>

 

10年という長い封印から覚めた俺は、空港へ向かう電車に乗っていた

(封印って先生、魔王じゃないんですから)

いわばそこは町から隔離された異世界

外国人が行き来する空間に気後れしそうになりながら

日々の景色は過ぎていった

 

担当する区間は成田空港第2ターミナルAゾーン

多い日は7000人位を相手にし、荷物を預かり5分以内にバスに積込むのが仕事

 

フラジャイルが通じないなんて言ってる暇などなく

優しい上司にいいから早く積めと怒鳴られた

 

これはSHOWなんだ、荷物を積み込む所を魅せるんだ

そう言われてその気になってる自分がいて・・・

 

「彼は何故、そうまでして魅せようとするのか?」

そんなドキュメンタリー番組に出ているところを想像してた

(大体、皆そうですよ)

 

特に覚えているのは報告書を書かされた時の事

優しい上司がどうしてもOKを出してくれなくて

書き直してはもう一回

お客さんの事悪く言っちゃいけないよ、もう一回

夜中までかかった

 

実際お客さんが間違ってたんだよな、でもそう書くと帰れない・・・

俺はこんな文章を書いてみた

 

「たとえ自分に非が無くても、自分にも責任がある事を認めなくてはいけません」と

 

お客さんを悪く言わずに、さらに自分は本当は悪くない

この文章によって、俺は牢獄から解放された

思えば文章の推こう作業

書き直せるのが本当のプロだとは良く言ったもの

作家と編集者のコントみたいな時間は終わりを告げた

 

曲がりなりにも交通関係という環境の中で日々を過ごし

社会に出て人と関わっていると、やっぱり引っ張られていく

多分、車の免許を持って無い人なんて殆どいなかったと思う

自然と俺にも運転免許を取ろうという意識が湧いてきていた

 

<教習所入所>

 

29歳になった俺は、ようやく車の免許を取る事になった

まだ満開ではない桜並木の横を、自転車で駆け上がる

途中まで行った後、駅とは違う方向に成田教習所はある

 

この辺りではもう一つ、審査に易しいと噂の教習所もあったけれど

俺は難しい方を選んだ

何となくそっちに引っ張られていくような気がしていた

実際、学科の八木沢先生の助言や、そこで感じた事は後に大きな財産になった

 

俺は殆ど中学・高校と行っていなかったから、教習所に行ける事は

大人になってからも学校に行っているみたいで、純粋に嬉しかった

自転車で遠くまで行けるし、若い女の子も見かけられるし

(えっ?)

授業がある日はボーナストラックの様だった

 

俺は教習所にわざと長くいる為に

午前11時の授業を受け

昼休みにファミマの塩カルビ弁当を食べた後

午後1時からの授業を受ける

そんなマイナーな授業の取り方をしていた

(相当好きですね先生も)

 

学科は兎に角、明るかった

 

兎に角、明るかった・・・

 

(何で2回言うんですか先生)

 

それぐらい学科は安心出来た

(兎に角明るい安村じゃないですか)

 

仮免ドライバーの君達に言いたいのは、学科の先生の話を聞く事 それだけで良い

俺は頭は普通ぐらいだけれど

興味を持って聞いていると段々波長が合ってきて

自然と良質な情報が引き寄せられてくるものだから

(スピリチュアルってやつですね)

 

八木沢先生の教えの中で最も救われた言葉がある

「スピードさえ出していなければ死なない」

 

時速40kmでの衝撃はビルの2階から

時速60kmではビルの5階からの衝撃に匹敵する

 

遠心力は速度の倍数の2乗

20kmに比べると

40kmでは4倍

60kmでは9倍の遠心力がかかる

 

この言葉は今でも心のバイブルにしている

「スピードさえ出していなければ死なない」

 

そもそも人間が対応出来る速度は、18kmまでだと言われていて

40km~60kmで走る車は、人間の対応速度を遥かに超えている

安全運転を根差す為には、全員がこの事実を理解する必要がある

俺は原チャリに乗っていたから

40kmでも速いという事を体感していたのは財産だと思う

(あれ、原チャリって30kmまでじゃないんですか?)

 

と、兎に角💦

50km制限でも状況に合わせて30kmで走っても良いし

徐行や停止をしても良い

右折は→矢印が出るまで待てば良いし

停車中のバスは別に追い越さなくても良い

 

早ければ優れていて、遅ければ劣っているという雰囲気に流されず

正しい知識と心を持った人間がいる事を忘れないでほしい

「周りの円滑な交通を妨げてはいけない」という言葉は

遅いと駄目という意味ではないのだから

 

<暴れ馬を乗りこなせ>

 

マニュアル車とは暴れ馬である」

という言葉はミルキー犬山の有名な言葉

(産まれて初めて聞きましたよ先生)

 

学科は兎に角、明るかった

明るかったけれど、しかし

 

実技は暴れ馬だった

(意味が分からないです)

 

男はマニュアルじゃないとちょっとね~という世論に

図らずも当時の俺は流されてしまったんだ

 

その日から、不器用な俺と半クラッチのぎこちない同居生活が始まった

 

元ヤンっぽい実技の先生が言う

まずクラッチを踏み込む

そしてアクセルを踏みながら徐々にフワッ~とクラッチを離していくと

ほら繋がった!

分かるでしょ?

 

何とな~く、はい・・・

作り笑顔のまま俺は目を逸らした

 

それからは半クラッチを克服しようと、毎日イメージトレーニングを繰り返したが

カックンカックン言いながら日々は過ぎていって

人には合う合わないがあるらしい事を知った

 

それでも何とか仮免貰って、道路講習も終盤に差し掛かった頃

面白い事があった

成田教習所のコースの公津の杜付近でそれは起こった

 

丁度信号が赤になり、俺は最前線で停車した

そこは約5度の緩やかな傾斜、有名な坂道発進である!

 

仮免ドライバーの君達なら知っている悪名高いそれである!

(普通知ってますよ先生)

 

これか・・・

これが悪名高いそれか・・・

俺は深呼吸をしてハンドブレーキをめい一杯引いて待った

 

そして信号が青になった・・・!

俺はブオーンと勢いよくエンジンをふかし、フワーッとクラッチを離し

ハンドブレーキを思いっきり・・・

 

下へ・・・

 

下ろし・・・

 

下りない!

 

それはもうガチャガチャ言ってるだけで、何にも前に進まない

そしてフゥーンというやるせない音と共に、エンジンは止まった

 

ハンドブレーキを強く引きすぎたからだぁ

あちゃ~真面目過ぎたか!

 

でもまだ時間はある!

諦めるな!

 

結局俺は4回目の坂道発進を成功させ、見事に向こう岸へ渡り切った

何とその青信号で渡れたのは、俺が乗っていた車一台だけだった 恥かいた

 

後ろの車のおじちゃん、笑ってたよ・・・

助手席にいる教官がシュールな捨て台詞の後に

何かをチェックシートに記入した

 

・・・知ってか知らずか

八木沢先生がこんな話をしてくれた

 

これは僕がバイクの大会で、日本一になった時の話なんだ

僕は当時タイムが伸びなくて悩んでいた

どうやって練習しても速くならない

大会はもうすぐそこまで迫っていた

 

そして僕はあるとき閃いたんだ

何も体ごとポールを避ける必要はない

車輪だけポールを避け、体を当てながら走行すればどうだろう

そうすれば最短距離でゴールまで行ける

失格になるかもしれないけれど、もうそれに賭けるしかない

 

・・・僕はその大会で優勝する事が出来たんだ

 

どんなに困難な状況でも、信じていれば必ず突破口が見つかる

俺にはそんなメッセージが込められているように思えた

 

後編へ続く

 

通り過ぎてしまった夏 後編

「君は歩いて行ける」

 

ここで少し話が遡る。

22歳の夏、人生で初めての受験勉強を始めた俺は

苦手だったアルバイトも出来るようになっていた。

鎖から解き放たれた様な自由な世界

譲れない想いがこんなにも人を変えるのか。

俺は当時ジャンジャンCMで流されていた某グッドウィル

成田空港や周辺倉庫の仕事に挑戦した。

 

当時車やバイクが無かった俺は、就業現場を決めるのにかなり苦労した。

毎回いつもの担当者に電話を代わってもらって

森にあるファミマの位置を2人で確認したり

歩きで行ける行けない

ニートVS営業の長電話はいつまでも続いた。

互いに苦笑いだった。

このときも、最後まで世話をしてくれた人がいた事を俺は忘れない。

(先生はさっきから世話かけっぱなしですね)

 

最初は成田空港バス乗り場の仕事が決まった。

当時の成田空港は1日約10万人、年間では約3000万人がが行き来する

日本最大の国際拠点だった。

様々な人種が行き交う空港の華やかさの中では、誰も俺を見ていない。

ここでは本当の自分を出せるんだ。

鮮やかに解放された空間で、俺は生まれて初めて周りを気にせずにいられた。

 

大型の高速バスが次々に過ぎていく。

圧倒されて一瞬帰りたくなっても、堪えて現場担当者に電話した。

少し年上の優しい男の人だった。

18歳でこの会社に入ったからもう課長だ、って言ってた気がする。

続けてれば誰でもなれるとか、どうでも良い話を聞いているのが俺は好きだった。

 

仕事はひたすら待機所とバスの間を50m位ダッシュ

到着したバスにお辞儀をし、スーツケースを引っ張り出すというものだった。

番号を読み上げるのが恥ずかしくて、声がちっさいと何度も怒られた。

あーあ駄目だね派遣は、どうせすぐ辞めるんでしょとかそんな人もいた。

でも今日は勉強しなくて済むんだからとか

片思いだった人を密かに想って、強くなってやるって頑張った。

 

緑にライトアップされた夜の空港、この時間になっても仕事場にいる。

ただそれだけで働いているという実感が込み上げた。

人と共に過ごしている。

仕事をしている。

俺にとって非日常。

毎日が最後になっていく。

 

誰かの話が続いた。

インテリアコーディネーターやってたときは・・・

アパートがボロくてうちには鍵が無いの・・・

友達が携帯ショップやってて・・・

眠りに落ちる前に聞こえてくる声の様に、心地よく流れ続けた。

 

三里塚の倉庫で働いた日は、兎に角迷った。

同じグッドウィルの少年と森にあるファミマで出会い

一緒に現場へ行く事に。

2人だとやけに安心するから不思議だ。

俺のが少し先輩っぽかったから、引っ張って行かなきゃと彼を連れて走った。

良く分からない建物を上から下まで、棟から棟へ真夏に走った。

もう時間が無い💦

朝9時になっても自分達がどこにいるのかさえも見失っていた。

電話で場所が分かり現場に着いた頃は10分遅刻だった。

あのときの少年よ、すまん!

(頼みますよ先生)

 

その日か忘れたけど俺は休憩中に、背中を思いっきり蜂に刺されて痛かった。

イデェー!って感じ。

井出さんを呼んだわけじゃない。

それは勉強ばかりじゃなく昆虫採集でもしなさいと

神様がくれた時間。

振り返ると笑える夏の思い出。

 

帰り道

送る送る言ってくれる人を振り切り

俺は近くの駅まで歩いて行く事にした。

 

千葉県の地図を広げて、目指すは芝山千代田駅

RPGの主人公になった様に誇らしい気になりながら

俺は夏を冒険した。

ジャンボジェット機が立ち並ぶ異様な景色を脇目に

何度も角度を変えながら

同じ場所を行ったり来たり。

空港警備に怪しい目で見られながらも、清ました顔で通り過ぎる。

夏の気温に大地が歪んで、空は青く輝いた。

もう完全に迷子になっていた💦

(多分、狐の仕業ですよ先生)

 

後に車で通る事になる道は歩くには遠すぎた。

ドラマの1シーンの様な1コマは今でも目に焼き付いている。

何とか持ち直し、国道62号が見えたときはほっとした。

その後も長い道が続いた。

信じられない程長いトンネルを過ぎて

駅に着いたときはもう夜だった。

あのとき何度も送ると言っていた人の言葉の意味が、そのとき分かった。

 

丁度電車が出る合図。

「早くしなよ、電車止めてるから」

親切な駅員が電車を止めてくれた。

しかし切符の買い方が分からなくて焦る。

「先に電車走らせて下さい」

俺は言った。

しかしそれでも強引に止めてくれた。

 

俺は電車の中で考えていた。

駅員は親戚の叔父さんに似ていたなって。

たまにそういう不思議な事がある。

祖父に似ている人や母に似ているような人が現れて助けてくれる事が。

後で分かったけれど乗り遅れたら1,2時間は無かったらしい。

 

6年後、俺はさっきの空港バス乗り場の仕事をやる事になり

この駅員の様に急いでいる人の為にバスを止め、チケットを買いに走る。

そんな仕事をする事になった。

この時の縁がパズルとなって、再び人生に重なり合う日が来る事を

運命は知っていたのだろう。

乱反射する太陽。

歩き続けた入道雲へと続く道。

若さ故にひと際輝く夏だった。

 

高卒認定の合格とグッドウィルの経験のお陰で

空白期間たっぷりの俺も、履歴書に自信が持てる様になった。 

調べてみると高卒認定や大検を持っているのは女優の杏、吉永小百合

他にも会長や作家など凄そうなメンバーも多い。

(先生はきっと良い作家になれますよ)

 

秋が来て

俺は音楽や映画好きを活かせる、レンタルビデオ店でバイトを始めた。 

そのまま社員になって18万ぐらい稼いで

大人になっていくのかなと思い始めていた。 

勉強をやり遂げた俺からはもう焦燥感は消えていた。

それで良かったのだろう。

気が付けば俺はニートを脱出していた。

そしてその冬、俺はペットロスを経験した。

 

俺は後悔した。

人としての道に目覚め、勉強し人を愛する夢を見て、自分の未来ばかりに思い馳せて

一番大切な友達を失った。

最後にそばにいてあげる事も、手を握ってあげる事もせずに

俺は明日のバイトの事を考えていた。

 

最後まで一緒にいたかった。

まだ大丈夫と自分を欺瞞(ぎまん)した。

自分の犬だけはずっと生きていけると信じてた。

一人で怖い思いをさせてしまった。

さぞかし怖かっただろう。

俺は部屋にいたのに何も出来なかった。

自分が許せなかった。

学歴なんか意味ないよと賞状を破ってしまいたくなった。

けれど出来なかった。

それは犬が命に代えて最後に俺に残してくれたものだから。

 

俺はバイトを辞めた。

 

2度とこの家を離れないと誓った俺は、安らかな日々に帰っていった。

俺は自分自身を閉じ込めた。

これで良いんだ。

 

失った時間を埋める様に俺はピアノを弾いた。

楽家になれば家にいられる。

音楽は心を癒し、新しい恋もした。

やがて夢は作家へと変わっていった。

 

想像の世界では思い描いたもの達が自由に広がって

どんな凄いシーンでも、笑えるシーンでもイメージ出来るんだ。

俺は来る日も来る日もそんなシーンを想像した。

自分が主催するW杯をやって現役復帰したバッジョ達の前で

カズがゴールを決める場面さえも・・・

それだけで何故か涙が溢れて来るんだ。

(本当、先生はカズ好きですよね)

 

少しずつ日々は昇華していった。

行き場のない俺にも図書館という居場所が出来て

悲しみが込み上げてはそれを抑えて

色々な本を手に取れば、それだけで夢に近づけると信じてた。

やがて社会と関わる事にも慣れていき、情熱と共に悲しみは去っていった。

 

俺はようやく悟った。

あの日、何故俺が外の世界に飛び出したのか。

そして魂の約束を。

 

あの日俺は部屋を出て勉強にバイトに走った。

そこで世話をしてくれた人達、助けてくれた人達の優しさを感じた。

それは俺が犬に与えた優しさ

犬と共に過ごした日々そのものだった。

俺は与えた想いを受け取る為に、あの日外の世界に飛び出したんだ。

俺は犬がどう感じていてくれたかを知った。

きっと毎日が嬉しかっただろう。

 

いつも一緒にいたね。

引き籠りの俺と友達になってくれたね。

君が掘る穴を俺がいつも埋めたね。

何度言っても雪を食べて・・・震えるのを止めなかったね。

散歩に行けなくて、お母さんが帰るまで一緒に待ったね。

庭でサッカーをしてる俺のそばにいてくれたね。

最後に一緒にいてあげられなくてごめんね。

毎日が宝物だったんだね。

 

それは生まれる前にした魂の約束。

落ちぶれた俺は引き籠り、犬と過ごした。

弟が出来たみたいに思いやりを学んでいった。

夢を見た俺はこの部屋を出て、人生に目覚めていった。

そして俺が強くなったとき

そのときはお別れしよう。

 

「それまでは僕が一緒にいるからきっと強くなるんだよ」

 

「俺達なら出来るさきっと」

 

それが俺達の魂の約束だった。

俺はようやく自分を許す事が出来た。

 

心理学にアルフォンス・ゲーテンの「12の悲嘆(ひたん)プロセス」

というものがある。

 

1精神的ショック

2否認

3パニック

4怒り

5恨み

6罪悪感

7空想、思い込み

8孤独、うつ

9無気力

10受容

11ユーモア

12新しい自分への立ち直り

 

同じようなプロセスを経て、それは優しさに変わっていった。

そして生きていく力が少しずつ溜まっていった俺は

再びこの部屋のドアを開けた。

もう一度あの場所で働くんだ。

成田空港ならきっと俺を分かってくれる。

 

2012年8月

俺はまた、通り過ぎてしまった夏の続きを歩き出した。

あれから6年の歳月が流れていた・・・

 

その後いろいろあって俺は今、近くの珈琲店でバイトをしながら

作家になる夢を見ている。

懲りもせずあの頃と同じ夢を。

だけど今度こそ夢を途中で投げ出したりはしない。

俺達には永遠に色褪せないあの夏があるのだから。

なぁそうだろう?

 

~引き籠りには世間とは別に歩むべき道がある。

俺達には違う役割がある。 

孤独と戦う使命が。

10年後20年後何をしているのかを考えてみてほしい。

そこには自分だけの世界が待っている。

無理に多数派に馴染もうとする必要はない。

逆らうのではなく導かれるままに自分の運命を生きるんだ。

俺は今このブログを書いている~

 

END

通り過ぎてしまった夏 前編

 

カズ、シドニー行くんだ・・・

長い間くすぶっていたもんな。

いいなぁ、新しい世界・・・いいなぁ。

 

2005年神戸で出番をなくしたカズは、南国シドニーFCに移籍した。

久しぶりに海を越えると意気込んだカズの行動は

当時ニートだった俺の中の何かを変えた。

次第にシンクロしていく想い、運命は動き出す。

 

やがて恋の切なさに駆られた俺は、ニートを脱出する決意をした。

そして人としての道を歩み始めた俺と

大好きだった犬との縁は少しずつ離れていった。

 

それは青年を大人へと導いていく代わりに

人生で最も大切なものを失う事を意味していたんだ。

 

外に出れば草木が風に揺れ、22歳の青春は光の中で輝いた。

胸の扉を開ければ今も、あの通り過ぎてしまった夏が蘇る・・・

 

[通り過ぎてしまった夏]

 

君は知っているかい?

現在世界には2億7000万人

日本国内にはおよそ70万人のニートがいる事を。

どこにも所属出来ない孤独に苛まれている人がいる事を。

原因としては精神的な部分が大きいだろう。

けれどそれは恥ずかしい事でも、間違っている事でもない。

俺もその中の一人、だった。

 

いずれ誰もが通るであろう道。

あの日、蛹(さなぎ)は孵化し蝶になろうとした。

 

「ドアを開けて風の中へ」

 

俺の場合、通信高校中退(中卒)という学歴コンプレックスや

強迫性障害があった事が主な原因になっていた。

そう認識できたのは、随分後に心理学を勉強してからだった。

 

社会復帰はそう簡単にはいかなかった。

今は復帰する事が全てじゃないと言える時代になったけれど

当時は会社で働く事が全てだと多くが思っていた。

昭和から平成へと時代を支え続けたのは、確かに労働力だった。

俺もその中に入って一緒に戦いたかったけれど出来なかった。

 

バイトをしようと試みても上手くいかなかった。

同級生に今の有様を知られたくないなんて言っては

成田から30分以上かかる千葉や船橋まで行って日雇いバイトに登録した。

で、結局現場が都内で遠くて行けないって感じだったり。

 

バイトの面接が何より苦手で電話をかけるまで何時間も

長いときは1週間ぐらいかかったり。

・・・今日は止めておこう

で、面接当日になるとバックレるというパターン。

(先生もなかなかのお豆腐メンタルですね)

 

他にもあらゆる方法で俺は閉じ込められた。

いや、自分自身で望んでいたのだろう・・・

 

そんなこんな家で犬と過ごすだけの毎日だった。

雨の日も雪の日もいつも一緒にいた。

表に出たかったけど、今思うと人生で一番幸せだった。

大人しくて、すぐキレる青年は

弟が出来たみたいに、思いやる気持ちを次第に学んでいった。

俺なりに少しずづ成長していたのだと思う。

部屋を出る日は近づいていた。

 

「カズ、シドニーFC移籍へ」

「4度目の海外挑戦」

ヴィッセル神戸で出番をなくしていたカズがついに動き出した。

俺の心は高鳴った。

自分も何かを成し遂げてみたい・・・

水面下でいよいよ何かが溢れるような予感が体中を駆け巡った。

 

年が明けて

歯医者で順番を待っていた俺にその時は訪れた。

「子供、出来たんだね」

ベビーカーを押す女子大生位の子達の会話が聞こえてきた。

何か胸がキューンってした。

俺が家で犬と遊んでる間に、日雇いバイトさえ上手くいかない間に

同世代の子達は子供が出来ているだって?

おいおい待ってくれ。

せめて25歳ぐらいまで誰も結婚しないでくれと俺は願ったが

もうどうにも止まらなかった💦

 

俺は焦った。

一週間梅干ししか喉を通らなかった。

ニートは埃被った脳をフル回転させて考えた。

答えはこうだ。

大検を取ろう。

俺も皆が勉強した事と同じ事をするんだ。

どんな気持ちで高校生活を送ったのだろう。

大学に行ったのかな。

それが分かれば皆に追いつけるんじゃないか、そう思った。

俺なりに出した模範解答だった。

 

1951年から続いていた大学入学資格検定(大検)や

その前身である専門学校入学者検定試験(専検)は難関とされて

ラクダが針の穴を通るよりも難しいと云われたらしい。

(それ無理じゃないですか)

当時はまだ大検と聞くと「苦労の人」という言葉が浮かんだ。

 

調べてみると丁度良い事に、旧大検は2004年で廃止され

2005年から高校卒業程度認定というものに変わっていた事が分かった。

合格の目安も60%から40%と格段に合格しやすい仕組みに変わった。

求めよさらば与えんの如く

志す者に広く門戸を開けようという文部省の計らいは

多くの人の人生に、変わるきっかけを与えてくれただろう。

 

俺は受験日を2006年8月に決めた。

あと半年しかない💦

(先生、ギリギリにならないと本気出さないタイプですよね)

こうなったら徹底的に過去問題をやって問題で覚えよう。

ちゃんと理解するのではなくパターンで覚えるという

一番やってはいけない勉強がその日から始まった。

必死だった。

もう少しで蝙蝠(こうもり)と友達になりそうだった俺も

夜は寝て、朝9時には起きるようになった。

 

科目は全部で8科目あった気がする。

国語、世界史、日本史、現代社会、数学、生物、英語。

もしかしたら家庭科もあったかもしれない。

どの科目をやったかさえ定かではないけど

あの情熱だけは覚えてる。

 

数学に取り組んだときは大変だった。

「参考書買って意気込んで、朝から晩までにらめっこ」

(何かの事業理念みたいですね)

数学ってのはいつも思うけど苦手だ。

どこがかというと

一番知りたいところが省略されていて、何でそうなるのかが書いてない。

学校行ってる人には分かるのかもしれない。

だけどこっちはニートだぞっ!

 

されどニート

俺達にはインターネットという魔法がある。

今ほど普及していなかったし、スマホもなかったけど

何とかネット環境には恵まれていた。

父の部屋のパソコンを使って俺はとっておきのサイトを見つける。

「数学ナビゲーター」である。

このサイトは掲示板形式でやり取りをしながら

分からないところを相談したりできるもので、俺は毎日入り浸った。

 

そこでは基本が分からな過ぎて、多くの人に見切られてしまったけれど

中学時代不登校だった俺を見捨てなかった数学の先生の様に

最後まで面倒を見てくれた親切な人達がいた。

数学を通して、そんな優しい人達に出会う事が出来たのは

先生が見守ってくれたのかな。

頑張ろうとする意志があればきっと誰かが助けてくれる。

皆に支えられて、試験に挑む日はやってきた。

 

千葉経済大学で2日間に渡り行われた試験。

この半年間の想いを全て解き放つように俺はペンを走らせた。

そして達成感と共に全日程を終える事が出来た。

不安だった数学は何とかなった。

ただ得意の現代社会は時間配分を間違えてしまい

採点では40%にあと少しで届かなかった。

不合格も覚悟したが、その後合格通知がきた。

 

実はこれには思う事がある。

現代社会のテストが終わるときの合図で、俺はすぐにペンを置いた。

俺が一番前の席で泣きそうなぐらい悔しい顔をしていたのを

試験管は見ていた。

他の人達はなかなか書くのを止めなかった。

 

もしかしたら試験管はそういうところを見ていたんじゃないかって。

一度は社会に出た生徒達が、何かの為に必死になって頑張ろうとしているところを。

文部省だろうが、テストだろうが、そんなものは全部無しにして

頑張った人は全員合格にしたんじゃないかって。

もしそうなら世の中捨てたもんじゃない。

この世界は本当は天国で、きっと彼らは天使なのだろう。

稲毛の空に遠く滲んでいく夕日を、ずっと見ていた・・・

 

後編へ続く

チキンラーメ、ん?わたしの推しは原貫太でっす

ある人の話を聞いていたときに遡る。

「たまに食べると美味しいっすよね~チキンラーメン

そういえばチキンラーメン、12年ぐらい食べてないなぁ~って俺は思った。

すぐにスーパーで買ったものの、ラーメンを食べるタイミングって意外とないもので。

何となく気になったまま、半年が過ぎていた。

 

このままじゃ今年もあと2日しかない💦

2021年12月29日、俺は慌てていた。

急いで今年中にするのか、それとも縁起よく元旦に頂くのか。

(先生、丁度良く3日までバイトお休みですよね)

だったら年越しそばの代わりに、年越しチキンラーメンにしようよ!

結局俺はそれでいく事にした・・・

 

「チキンラーメ、ん?」

 

君は知っているかい?

この世界には飢餓や貧困で苦しんでいる人がアジア、アフリカ、北中米などの

赤道付近を中心とした地域で約8億1100万人いるという事を。

540万人の命が5歳を迎える前に・・・

学校に行けない。

電気が無い。

寒くても服が無い。

いつもお腹を空かしている。

そんな子供達の笑顔を見た事があるか?

悲しい顔よりも涙が溢れそうになるのは何故だろう・・・

 

先ほどの件(くだり)でチキンラーメンを食べる事になった俺は

ふとパッケージに記載されている「WFP国連世界食糧計画」が目に止まった。

(それでチキンラーメ、ん?なんですね)

俺は昔ドラえもんの映画や、最近だと原貫太さんの動画を見ていて

環境問題や海外支援に興味があったからだ。

 

こういった商品はチャリティー商品といわれるもので

売り上げの一部が寄付される仕組みになっている。

(たまに見かけますよね)

この日清食品が販売するチキンラーメンの場合、売り上げの内

1食0.2円が寄付され年間で3000万円分のチキンラーメン

学校給食として提供される事になっている。

「すぐおいしい、すごくおいしい」ってスワヒリ語で言いいながら

皆が楽しく食べてるところを見てみたい。

(キャッチコピー大事ですよね)

 

日本にいるといまいち実感が湧かない遠い国の話。

具体的に現地ではどの様な状況になっているのだろうか。

俺はアフリカの歴史と貧困事情を中心に、調べてみる事にした。

 

「遠きアフリカ」

 

まず最初に俺の家からの距離と行き方を探ってみよう。

今回はアフリカ中央部コンゴ民主共和国、首都キンシャサに行く事とする。

まずは距離。

地図上を直線で測ると12633キロある。

分かり易く言うと成田から佐倉までが10キロだからその1263倍

つまり成田から佐倉まで1263回歩いて行くぐらい遠いという事になる。

(先生、地元人でも分かりにくいですよ)

と兎に角💦

Qちゃんでも足が棒になっちゃうぐらい遠い場所にある国なんだ。

(佐倉出身の高橋尚子さんの事ですね)

 

次に行き方だ。

今のところ多分行かないだろうなぁと少し罪悪感を抱えながら

俺なりにネットで行き方を調べてみた。

まず成田空港まで車で行く。

家からは車で15分ぐらいで行けるから家の誰かに送ってもらおう。

今回はエチオピア航空で行くとして1タミ(第1ターミナル)からの出発だ。

間違ってANAに乗らないよう注意をしよう。

直行便は今のところないのでまずエチオピアの首都アディスアベバに行く。

フライトは16時間、8時間寝ても8時間余るぞ。

疲れそうだから現地で1泊しよう。

エチオピアで現地の食べ物インジェラやドロワットを堪能した俺は

だんだん眠くなってきてもう1泊ぐらいする事になるだろう。

そして次の日4時間のフライトを経て

ようやくコンゴ民主共和国に到着するのであった。

エチオピアの2泊がポイントですね)

 

次にアフリカ全体として貧しい国

または地域によって何故貧富の差があるのかを考えてみよう。

 

まずは原因として考えられるのが、アフリカには奴隷貿易という暗黒の歴史があった。

15世紀から19世紀半ばにかけて主に男性や子供が農業要員として

アメリカなどに連れていかれた。

オーダーを出していたのはヨーロッパ、アメリカの農業経営者などで

実際には船乗りや奴隷商人が大金目当てに現地の部族を使い行っていた。

総勢1250万人が奴隷として商売に利用され

200万人が長い船旅で犠牲になった。

彼らは船底に敷き詰められ、オールを漕いで大西洋を渡っていった。

 

その後1771年ロンドンの裁判で一人の男が勝ち

奴隷から解放された事をきっかけにヨーロッパの世論は動き出す。

イギリス、デンマーク奴隷制度が緩和、廃止されていき

ついには1815年ウィーン条約で奴隷売買の国際的禁止が明記された。

そして1860年には隆盛を極めた奴隷制度は終わりを迎えた。

 

また18世紀後半から20世紀半ばまでアフリカは植民地化されていた。

産業革命の為の資源を採掘する為、欧米はアフリカを占領下にしておきたかった。

その後20世紀初頭からアフリカ人を尊重しようという流れが始まり

(パン・アフリカ主義)

第2次世界大戦後の財政の悪化によって、欧米は植民地を維持できなくなり

一気に植民地を開放していく流れへと変わっていった。

そして1957年ガーナの独立がアフリカに希望を与え

多くのアフリカの国々が独立出来るようになっていった。

(1960年アフリカの年)

 

こうした歴史の根底には黒人差別が潜んでいたのだと思う。

しかしそれは終わった。

世界は過ちに気付いた。

いつの時代にも心ある人間がいる事を忘れてはいけない。

これからはアフリカ国内が変わっていかなくてはいけないだろう。

 

500年もの間、労働力を奪われ、自治権を持たせて貰えずにここまで来たアフリカは

現在でも国としての土台が成熟していない。

独裁政権を守る為の軍事的政治。

民主主義が根付かず国民が政治への影響力を持つ事が出来ていない。

国境紛争、資源を巡る操作された争いで治安が安定しない。

雇用を必要としない資源採掘は一部の富裕層しか生まず

薄利多売のカカオなどの農業は自然被害を受けやすく安定しない。

 

皆に出来る事は何だろう・・・

やっぱり、アレしか・・・チキ、ん?

 

「WFP国連世界食糧計画

 

「ポールテルガト」

ケニアのマラソンランナーだ。

ミラノやベルリンマラソンで世界記録を2回も作った

ケニア長距離界の父と呼ばれている。

彼は子供の頃WFPが支援する学校給食を食べて育った。

学校への道のりを毎日走り、そして強くなっていった。

彼は一体どんな気持ちで走っていたのだろう。

辛かったかな、嬉しかったかな。

ケニアの少年は走る事で世界で一番凄い人になれたんだ。

 

それぞれに出来る事がある。

足の速い人、文章が好きな人、絵が上手い人、誰よりも優しい人。

どこに住んでいてもきっと人類なら

人類なりのやり方で乗り越えていけるはずだ。

俺は文章を書く事で人に夢を与えていきたい。

 

困っている人の為、それは自分達の為でもある。

資源を大切にし、無駄にものを消費しない習慣はやがて世界の為になる。

俺が誰かを助けたいと思うこの気持ちはきっと

引き籠りの俺を助けてくれた人達の想い。

そしていつか支援を受けた現地の人がどこかで誰かを救うんだろう。

そうやって想いは循環している。

いつか世界が水不足、食料危機に陥った時

俺達を助けてくれるのは誰だろう。

 

何不自由なく食べる事が出来るこの当たり前の毎日こそ

何億円でも買えない掛けがえのない財産だった。

WFPの学校給食支援では1回5000円の寄付で

子供1人1年分の学校給食を支援する事が出来る。

 

そう、だから俺はチキンラーメンを食べるんだ。

美味しくて、温かくて、ただ俺の欲望を満たすだけかもしれないが

それでもいいだろう?

マグカップに注がれる給食を、楽しみに待つ現地の人達を思い浮かべて

同じ気持ちになってほしいと願うだけでも、俺は役に立っていると思うから。

 

12月31日、予定通り俺は年越しチキンラーメンを食べた。

お餅を入れてゆっくりと、今年は早かったなぁっ~て思いながら

世界に光が溢れますように・・・そう願った。

チキンラーメン

 

いや、アーメン💦

 

余談だが俺は今回、はてなブログ特別お題キャンペーン「わたしの推し(スター)」

というものに挑戦するべくこの記事を書いた。

今回の応募者は787人いて

その中の5人が特製Tシャツを貰えるらしい。

不覚にも「欲しいなぁ」って普通に思った。

(先生も意外とピュアなんですね)

 

それに面白いと思ったのは何かに挑戦する事。

たとえ選ばれなくても、頑張った人全員に価値があると俺は知っている。

本気を出せば、いつでも世界は動いていく事を

誰でも人に光を与えられる事を、俺は証明してみせたい。

証明しようぜ、同志達!

 

気が付けばもう年が明けていた・・・

 

END

 

※ちなみに「すぐおいしい、すごくおいしい」は

スワヒリ語で「Ni ladha mara moja,Ni ladha sana」

英語だと「Its delicious right away,and so delicious」

 

※また世界の現状について「国際協力師」原貫太さん

その他多くのネット情報を参考にさせて頂きました。

1998の灯~パラレルワールドからの贈り物~後編

「人の生きる道」

 

あれから23年の月日が流れた。

あの頃の友人達は親になり、家族の為に今を生きている事だろう。

一方の俺は相変わらずの独り身で、ブロガーなんて夢見てる。

時代は変わり、それぞれが流されて遠くここまでやってきた。

俺達は確かに大人になった。

 

あの頃は理解出来なかった事が今なら分かる気がする。

岡田監督が何故鬼にならなければいけなかったのか。

それは鬼にでもならなきゃ、カズを外すなんて事は出来なかったから。

フランスに残る事がチームの為にならないとまで言った。

どう考えても、カズは誰より熱い気持ちで共にW杯を戦えたはずなのに。

古い権力の凋落(ちょうらく)によってのみ

新世代の力を手に出来ると信じていたんだと思う。

わざと自らの気持ちを封印し、追い込み信じた盲信は

全て日本の為だった。

 

その後岡田監督はJ2コンサドーレ札幌を優勝へ導き、

J1横浜FマリノスではJリーグ史上初2年連続優勝の偉業を成し遂げた。

そして2010年アフリカW杯では、再び日本代表監督として戦う所まで返り咲いた。

(岡ちゃん偉いですね)

 

失敗をどうとらえるかが人生のカギになる。

それは本当に悪い事なのか。

シュートは打たなきゃ入らない。

ロベルトバッジョだってPKを外す事もある。

バッジョの有名な言葉がある。

「PKを外す事が出来るのは、PKを蹴る勇気を持つ者だけだ」

誰かが決めた答えなんかじゃ、納得できない。

自分が人生で経験してみて、感じた答えの中に真実があるのだから。

 

そうカズも・・・

 

54歳になった現在もカズは現役を続け、自分だけの答えを探している。

そしてもう一人の自分に問いかけている、カズはもう駄目なのか。

本人だって分かってる、それでもいい。

やって見せたいんだ、ボロボロになってもどこまで出来るのか。

試してみたいんだ、俺はまだ墜ちてないぜって。

なあ見ててくれカズさん、これが今出来る俺の全てなんだって。

まだまだ俺は満足しないぞ、今に見てろよ。

出来るだろ?俺はキングなんだ。

 

きっとカズはもう一人の自分にそう問いかけ続けている。

そして見届けてほしいんだ。

選手としての最期を。

最期まで力を出し切って終えるそのときまで・・・

 

結果の出ない人生に価値はないのか、いやそうじゃない。

俺は中学から登校拒否で大人になってからも13年間引き籠った。

失敗した人生だったかもしれない。

でも人生は完璧じゃなくていい。

その完璧じゃない人生を、いかに一生懸命生きようと出来るか。

それを試すために人はこの世に生まれてきたのだから。

 

人は皆、迷い苦しみいつか自分の答えを出すだろう。

どちらが正しいか分からなくなったら、心が前向きになる方を選べば良い。

胸が熱くなる方を、笑顔がこぼれる方を。

俺はもう、一生懸命頑張っている人を笑ったり、批判したりはしない。

今度は大人になった自分達が戦う番なんだ。

 

俺はこのパラレルワールドからの贈り物に想いを重ねて、歩いていこう。

夢をを信じて戦い続けたカズの様に・・・

 

END

1998の灯~パラレルワールドからの贈り物~中編

「混沌のアジア予選」

 

今でもそうだ。

W杯予選、アジアの険しい道のりを歩む戦士達を初めは世間も応援する。

ところが上手くいかなくなると次第に一部から批判が始まる。

自分は何も戦っていないのに、批判する事が正しいとさえ思っている人もいる。

特にネットでは何故か、絶対数が多いはずの擁護派より批判意見の方が多い。

 

「選手を代えれば良い」「4バックなら勝てた」

「監督が責任を取って辞めるのが海外では当たり前」

なんてよく聞く。

そういうのってサッカーだけじゃないけど俺は言いたい。

自分達は出来んのかい?

顔と名前出して戦えないなら言うな。

絶対出来ないだろ。

批判言うなら応援しろよ。

 

ネガティブじゃ何も生み出せやしない。

むしろ・・・

 

そもそも俺を含めて、世間ってやつはサッカーを良くを知らない。

(別に良いんじゃないですか先生)

中東や東南アジアといっても、大の男達が本気でやるわけだから

ギリギリの戦いになるという事は必然だ。

つまりサッカーの上手い下手以前の問題で、ほとんど椅子取りゲーム。

全盛期のカズや、中田、俊輔、大黒がいてもそう簡単ではないはず。

 

敵はイングランドでも、ブラジルでもない。

韓国のあいつが・・・

アウェイのUAE・・・

50度に上り狂う中東の最高気温は世界平均の約2倍!

精神力、戦術、社会情勢、アウェイへの順応、総力戦で実力差も乗り越えていけ!

今も昔も変わらないW杯アジア予選の真の面白さがそこにある。

そうあの日々も・・・

 

「1998の灯」

 

ここでもう一度、1998年W杯最終予選に話を向けよう。

あれは今よりもっとハードで、ロックな・・・

17世紀なんじゃないかと言いたくなるほどのカオスで

日本が満ち溢れていった💦

 

ウズベキスタン戦は良かった。

上手くいっているときは皆、性格が良いものだ。

でも駄目なときほど人間には真価が問われるだろう。

実際、結果はだんだん上手くいかなくなってしまった。

案の定、メディアを中心に性格に問題をきたす人が現れていった・・・

 

アウェイUAE  0ー0 (灼熱のピッチで悪くはなかったが)

ホーム韓国 1-2 (84分、87分失点で逆転負け、エースカズ尾てい骨負傷)

アウェイカザフスタン 1ー1 (エースカズ強行出場も89分に失点で振り出し)

攻撃陣の不甲斐なさ、終了間際の失点にDF陣はいら立ち

城などの出られない若手の不満はピークに達していた。

そして加茂監督が更迭(こうてつ)された。

この瞬間から、まだ監督経験のない岡田体制へと大きく流れが変わる事になった。

この新陳代謝はカズにとって、城との世代交代をも意味していく事になる。

 

その後の岡ちゃんジャパンは

アウェイウズベキスタン 1ー1(勝ち点1がやっと)

ホームUAE 1ー1 (勝ち点1がやっと)

内容は悪くなかったが結果が出なかった。

 

アウェイ韓国 2ー0 (FWよりMFがゴールする、岡田体制の理想的ゴール)

ホームカザフスタン 5ー1 (結果が伴ってきた)

中立地ジョホールバル イラン3ー2(カズ絶不調からの→城絶好調、おまけで岡野)

何とか持ち直した岡ちゃんジャパンは史上初のW杯出場を決めた。

これは歴史の壁を越えるという本当に凄い出来事だった。

 

一方でFWにスペースを作る動きを求める事で、カズの無得点が続いていた。

この戦術の変更には、無意識レベルで正当化された鬼が監督の中にいたのだと

俺は思う。

そして事情を知らない世間の思考がついには形となり混ざり合い

得体のしれない黒い影となって、この世に生み出されてしまったんだ。

カズを外せ・・・外せ・・・

所謂(いわゆる)、カズ不要論である。

敵が誰なのかさえも見失う、群衆心理が働いていた。

 

そしてW杯は始まり、終った。

アルゼンチン、クロアチアに善戦も0ー1、ジャマイカに1ー2で予選敗退。

特に今度はエース城を絶不調が襲った。もうどうしようもなかった。

はっきり言って「誰も悪くない」が正解だろう。

これが夢に見たW杯、実際には夢ではなく現実が待っていた。

 

W杯予選ではカズより城という世論の思考が具現化され、

W杯本大会ではやっぱりカズがいなきゃ駄目なんだという現実に晒された。

日本中が大きな思考の渦潮にのまれて、最後は凪になった。

ワ~ってなって、一気にス~ってなった。

 

ジャマイカ戦を終えてピッチに墜ちた盟友井原の背中には

カズよ何故いてくれないんだと書いてある様な、そんな気がしていた。

 

後編へ続く

1998の灯~パラレルワールドからの贈り物~前編

君は覚えているかい?

知らない人さえいるだろう。

まだ日本がW杯に出た事が無かった1998年の事を。

そしてその先頭で夢の舞台に立つべき一人の男がいた事を。

 

もう、23年前の事。

未だにそんな話している人はいないだろう。

それは化石のように感じられるほど、遠い過去のストーリー。

今ここで、昨日まで遠く離れていた俺の心を引き寄せたのは

意外にも、メルカリというタイムマシーンだった。

 

記憶の彼方に散らばったパズルが、時を経て一つに繋がっていくとき、

1998の灯が真実を照らし出す・・・

 

「新たな途」

 

最近俺はメルカリにハマっている。

(意外と楽しいですよね)

売れると本当嬉しい。もうその人と友達になろうかと思うぐらい。

(確かに!)

 

第一印象が良かった。

初めてのメルカリで、カズがクロアチアにいた時のユニフォームが掲載したとたん2分で売れたんだ。

試合開始2分でゴールを決められるなんて、やっぱカズはすごいね。

当時俺が信じていたカズへの想いが、そのユニフォームを引き寄せ

20年以上経てそれを手放すときでさえ、同じ気持ちを呼び起こした。

想いは確かに具現化し、そして今去っていった・・・

そう、現在54歳を迎えたカズへの想いがついに冷めていき

現実でも事象となって俺の前に現れる事になったんだ。

 

その後のメルカリワークは順調に見えたものの

20年前のギブソンのピックアップが売れた後は、停滞期に入っていってしまった。

所謂(いわゆる)、得点力不足である。

ああ・・・何か少しずつ・・・似てる・・・

1998年W杯フランス最終予選初戦6-3でウズベキスタンに勝ったあの試合・・・

その後、揺らぐ僅かな光を目指してた、夜明け前の長い闘い・・・

 

絶好調のカズが4ゴールを決めた。狂喜乱舞。ハイテンションナイト。

1点目 盟友井原が倒されたPKは、力強くゆっくりとカズ!

2点目 ショートカウンターからのオフサイドを気にしたコミカルなストップ&ゴー

相馬が溜めて最後はセンターでカズ!

3点目 プレッシングで相手を追い詰め、西澤のカットから中央へ切り込んで

大地を駆けるライオンの様にカズ!

4点目 右サイド中西からのふわっとしたボールをドフリーで胸トラップミス

しかし終わらない。

無理やり足を伸ばし最後は左足でカズ!

 

気付けば俺の部屋にはメルカリポイント600円で買った、1997年9月8日月曜日

試合翌日の日刊スポーツとスポーツ報知があった・・・

いつの間に!

断捨離して空いた俺の心に、新たな途が敷かれ始めていた。

 

パラレルワールドの存在」

 

ある日メルカリを見ると、エンジェルナンバー22,222円で「それ」は売っていた。

いいね!を押した。

ただそれだけの事、買う気はまったく無かった・・・

そして「それ」は数日後、16,500円になって俺を誘った。

俺の心が日を増す事に青く、碧く染まっていく。

(それ絶対買う流れですね)

 

そう、目の前に現れた「それ」はウズベキスタン戦の翌年

1998年W杯でカズが着ていたはずの幻のユニフォームだった。

 

しかし俺は3時間のバイト。しかも38歳、独身。

(笑える?)

阿部寛の「結婚できない男」をリアルタイムで見て

うんうん言っていたタイプの人間だ。

「23年前が~」「幻の~」言ってる場合じゃないだろと誰もが思うだろう。

自分でも思った。

そんな中また値下がりして、今度は13,500円。ライバルは3人。

明日まだ売っていたら買おうかな、俺は迷いながら眠りについた。

 

その晩こんな夢を見た。

どこかの押入れに黒い鳥が閉じ込められている・・・ 

それは船に乗ってやってくるのではない・・・

 

押入れの黒い鳥は、日本代表のエンブレム八咫烏(ヤタガラス)が仕舞ってある

という意味だ。

船ではないは、場所的にも精神的にも、もう俺の近くに来ている事を示している。

しかし1998年幻版を買うにはまだ迷う理由があった。

 

ここからかなり細かい話をする。

寺門〇モンのコレクションの話の様にマニアックな話になるだろう。

(深夜にやっていたあれですね)

 

まず1997年伝説版というものがある。

ウズベキスタン戦で着ていたこのユニフォームはアディダス

ネームが黄色いデカ文字になっている。

本当はこれが欲しかったが新品で23,500円から値上がりし

迷っていたらおいおい24,500円になっていた。

(上がるパターンあり?)

と兎に角💦ほとんど出回っていないモデルで、将来100万円はするだろう。

 

一方1998年幻版はアシックスで2種類存在している。

一つは、1998年6月の大会前までで、選考中のためネームが入っていなかった。

もう一つは、大会モデルで胸に黄色でWORLD CUP FRANCE 98とかいてあり

ネームは白いデカ文字だった。

 

今回俺とご縁があったのは、1998年大会前モデルでネームが入っていて

白いデカ文字。

少し違う所がネームの間の隙間が空いてない事だ。

リアルだと「K A Z U」

これは[KAZU]

またネーム、背番号に欠けがある。

 

まとめると大会モデルではない。

ネームがリアルと少し違う。

年季が入っている。

細かいがここで悩んでいた。

折角ならカズがW杯で着ていたはずの完全なユニフォームが欲しいと・・・

 

だが考えてみるとそれが存在しなくても不思議ではない。

当時カズはW杯に行っていない。

そもそもそれが幻だという事を忘れてはいまいか。

無いものを手にしようとしていたんだ。

 

しかし、導かれるようにそれはそこにあった。

そして、俺がその碧さに引き込まれてからこの世界の何かが変わった。

当時のサポーターの願いは幻を生み出し、23年の時を経た今、俺と重なっていく。

少し違うデフォルト・・・もう一つの違う世界で・・・

傷だらけのユニフォーム・・・聖痕・・・

カズは確かにW杯に出たんだ。

 

2日後、幻のユニフォームはらくらくメルカリ便で俺の元に届いた。

 

中編へ続く